近江牛の歴史
近江牛をめぐるできごと
江戸時代
- 1590年
(天正18年) -
豊臣秀吉の小田原攻略の際、高山右近が牛肉を蒲生氏郷と細川忠興に振る舞う
- 1687年
(元禄年間) -
彦根藩で牛肉の味噌漬けを考案 「反本丸(へんぽんがん)」と称する
- 18世紀後半
(明和〜安永年間) -
彦根牛肉を諸侯に振る舞う
- 18世紀後半
(天明年間) -
彦根藩から牛肉の味噌漬けを将軍家斉に献上する
- 18世紀後半
(寛正年間) -
彦根藩で乾燥牛肉製法を始め、将軍家斉に献上する
- 19世紀半ば
(嘉永年間) -
蒲生郡内において、尾張藩士の指導で牛の肥育がはじまる
- 19世紀半ば
(嘉永から安政年間) -
彦根魚屋町の勘治が彦根牛の看板を掲げ、江戸で開業する。
殺生禁断のため、井伊直弼は徳川斉昭への恒例の牛肉献上を中止する
- 19世紀半ば
(慶応年間) -
彦根産の牛肉が薬用として売られ、「牛鍋屋」が開業される
明治時代
- 1869年(明治2年)頃
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県内から陸路17~18日間をかけて横浜まで牛を出荷し、外国人との直接取引が始まる
- 1877年(明治10年)頃
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逢坂、武佐、大町、豊郷、今津屠場で、1日50頭の屠畜が行われる
- 1879年(明治12年)頃
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竹中久次が東京に進出し、牛肉卸小売「米久」を開業。
近江産を中心に1日40頭が屠畜される
- 1882年(明治15年)
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神戸港から海運により東京に出荷開始
- 1884年(明治17年)
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四日市港から海運により東京に出荷開始
- 1887年(明治20年)
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屠殺条例制定
この頃の東京府下の屠畜数は約2万頭(産地別内訳は近江33%、摂津32%、播州11%、伊勢7%など)
- 1890年(明治23年)
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前年の東海道本線開通により、近江八幡駅より牛の輸送が始まる
- 1892年(明治25年)
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朝鮮半島より牛疫が伝播し、生体牛の輸送が禁止される
- 1907年(明治40年)
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近江牛育ての親と呼ばれる西居庄蔵翁が、蒲生郡牛馬商組合を設立する
- 1910年(明治43年)
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家畜市場法の制定公布により、県内家畜市場を改組し、草津、八日市、貴生川の市場が整備される
- 1911年(明治44年)
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県内で常設家畜市場が開設される(草津・貴生川・湖東・八日市・瀬田・野洲・西押立・木之本)
大正~平成
- 1914年(大正3年)
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東京上野公園で全国家畜博覧会開催、蒲生郡の牛が優等1位となる
- 1932年(昭和7年)
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県立種畜場が野洲町市三宅に設置される
- 1935年(昭和10年)
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東京芝浦家畜市場の共進会で蒲生郡の牛が優等3位となる
- 1942年(昭和17年)
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役肉用種牝牛貸付規定により、和牛飼育を奨励する
- 1948年(昭和23年)
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滋賀県庁に畜産課が新設される
- 1951年(昭和26年)
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近江肉牛協会が設立される
- 1952年(昭和27年)
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近畿東海北陸連合肉牛共進会(第1回)が開催される
- 1954年(昭和29年)
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日本橋・白木屋で近江牛の大宣伝会が開催される
- 1956年(昭和31年)
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社団法人滋賀県畜産会が設立される(現在の一般社団法人滋賀県畜産振興協会)
- 1959年(昭和34年)
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和牛生産団地育成事業、肉蓄団地設置事業等により肉用牛の生産を図る
- 1962年(昭和37年)
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滋賀県家畜商業協同組合が設立される
- 1966年(昭和41年)
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株式会社「滋賀食肉地方卸売市場」が設立される
- 1991年(平成3年)
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牛肉の輸入が自由化される
- 2005年(平成17年)
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近江牛の定義が「豊かな自然環境と水に恵まれた滋賀県内で最も長く飼育された黒毛和種」と定められる
- 2007年(平成19年)
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近江八幡市で、滋賀食肉センター操業開始
近江牛が地域団体商標(文字商標)として登録される
「近江牛」生産・流通推進協議会が設立される
- 2010年(平成22年)
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滋賀食肉センターを通じ、近江牛の輸出開始
- 2017年(平成29年)
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近江牛が「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)に基づく、
特定農林水産物等として登録される(GI登録)
反本丸(へんぽんがん)
江戸時代には牛肉は薬用として食されていました。1687年彦根藩において花木伝右衛門が明の李時珍の著書「本草綱目」を参考に牛肉の味噌漬けを考案し、「反本丸」と称した、と伝えられています。「本草綱目」は慶長年間に明より伝えられた書物でその中に「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し脾胃を養い腰脚を補益す」との記述があることから、反本丸は補養薬として作られたものと考えられます。当時,公然と食べることができなかったので、薬という名目を使ったのかもしれません。
「寒」の干牛肉
江戸時代、彦根藩では牛肉を乾燥させて食べていたという記録が残っています。この干牛肉は塩加減をできるだけ少なくするため1年で最も寒い1月上旬から節分までの1か月間で作られていました。古来この1か月の期間は「寒(かん)」と呼ばれていたため、「寒」干牛肉として薬用に食されていたようです。
徳川斉昭からの礼状
彦根の牛肉は滋養のため、多くの大名などから所望されていました。水戸藩の徳川斉昭も牛肉愛好者の一人でした。写真は嘉永元年(1848年)12月に彦根藩主井伊直亮から斉昭に牛肉を贈ったことに対する礼状の一部です。「度々牛肉贈り下され薬用にも用いており、かたじけない。」と感謝の気持ちを記しています。
厚木の牛肉店
写真は文久3年(1863年)ごろ来日した写真家フェリックス=ぺアトが、来日間もない頃に宿場町厚木(現在の神奈川県厚木市)の風景を撮ったものです。右側の店が掲げている看板には「牛肉漬」「薬種」との表記があります。つまり明治維新の3~4年前のころには、東海道から離れた厚木のような小さな町で近江彦根産の牛肉(おそらく味噌漬)が薬用として売られていたということがわかります。(参考:「牛肉と日本人」吉田忠 著)
大宣伝会
近江肉牛協会が誕生した昭和26年から、東京の芝浦で生体コンクールが行われ、同28年には国会議事堂や上野公園で、同29年には日本橋の百貨店白木屋において、宣伝活動が盛大に行われました。
滋賀食肉センター
平成19年4月、県内の食肉処理施設を統合し、白を基調としたシンプルで近代的な滋賀県唯一の食肉流通拠点として、近江八幡市にオープンしました。